COLUMN
コラム

先日、とある講演後の質疑応答の時間に、ある女性から涙ながらにこんなご意見をいただいた。「中途障がいを負い、人生に絶望をした。その頃はひきこもりにもなったし、生きているのが辛くもなった。障がいを負うということには大きな苦しみが伴う。その事実を知って欲しい。そして、やっぱり人に助けられた。これからは、何か地域に役に立つことをしたい。」と。会場からの視線が集まる中、とても勇気あるご発言であった。女性の痛切な心の叫びであった。僕たちは簡単に障がいという言葉をスライドに載せて使う。あたかも、その全てを理解しているかのように。障がいやひきこもりが原因で社会と断絶されることは、ときに絶望を伴う。僕がうつ病だった頃もまさにそうだ。どこにも所属していないということは恐怖なのだ。生きている価値を失いがちになるのだ。孤立感に心が荒むのだ。人間には所属意識という不確かな心情があって、ときに何かに類型されることで安心を持ち合わせることができる。それは社会という大きなものでなくでもいい。行きつけの喫茶店であったり、町内会、趣味の集まり、宗教・・・。誰かとつながりを持つことで安心を保有する。僕は障がいを抱える全ての人の心理を理解することは出来ない。でも、時間をかけて想像することは出来るかも知れない。一度、社会から離脱した経験がある者として。社会はまだまだ未成熟で、障がいのある人やひきこもり状態にある人に、完全なる理解が浸透しているとは言えない。陰で苦しみにもがいている人は大勢いる。そして、それを打破することに挑戦する者たちがいる。社会を一気に変えることは不可能だが、少しずつ、一歩ずつ理解の色を塗っていく。いつか、それが希望に変わればいい。「一隅を照らす人でありたい」その女性の痛切な叫びを耳にして、改めてそう思った。